自分の疲労の度合いを知る

「疲労」は身体が発しているSOS信号、そして「疲労」は身体的・精神的な質的・量的能力の低下状態でリカバリーの必要性が年々高まっていることを前回書きました。

疲労に対して科学的な研究の歴史を振り返ると、始まりは19世紀末イタリアの生理学者モッソという人物までさかのぼります。モッソが自身の研究を基に「疲労」というタイトルの本を出版したのは、いまから約130年前です。疲労の研究は、1世紀ほどの浅い歴史なのです。その後、医学などの分野を中心に研究が行われ現在に至ります。

元来、医学分野は、ヒトの様々な現象からそのメカニズムを説明する現象論的な学問です。病気に罹ると、患者さんはいろいろな症状を医師に訴えます。医師は、それらの症状の特徴から病気を特定し、そのメカニズムを説明しようと努めます。疲労に関してもこれと同様で、自覚的な疲労を訴える患者さんに対して、そのメカニズムを説明しようとします。ところで、みなさんが訴える「疲労」という言葉の後に「増加や蓄積という言葉をつけたがる傾向はありませんか?」、「ヒトの疲労は、何かが増加したり、蓄積するものだといつのまにか思い込んでいませんか?」。いままで多くの医師や研究者も同様に考えたことから、その増加したり、蓄積する物質こそが疲労物質であると信じ、この発見に努めてきました。そして、それにより客観的な測定やメカニズムの説明ができると考えてきました。この考えのもとで、運動後の乳酸が疲労物質であると長い間、誤って信じられてきました。現在、これは否定されていますが、その混乱は未だに続いています。

さて、「疲労」という言葉を辞書で調べてみると、「精神的または肉体的に活動した後に続く、仕事量の減少、遂行の非能率化を特徴とする常態」と書かれています。ここから疲労は、生理的・身体的な活動能力の低下した現象のこととなります。さらに、「急性疲労は、運動などによる運動能力の低下のように小休止や休息によって回復する疲労である。日周性疲労は、労働やトレーニングの後などにより長時間残るが、睡眠を充分取ることで回復する程度の疲労である。」(医学大辞典,医学書院)とも続いて書かれています。ここから疲労は、休養により回復して消えるものと読み取れます。このことは、ヒトの疲労を生理的な機能低下という身体的現象で定義する一方、「疲れ」と謂われている、湧いては消える自覚症という心理的現象という異なる2面で定義していることに気付かされます。このようなことが日常化していることも、疲労に対して間違いや混乱を引き起こしてしている一因と考えられます。日本疲労学会では身体的現象を「疲労」、心理的現象を「疲労感」と説明しています。自覚症状に対して「疲労感」という心理的ことばを使わないと医学的に説明できないのです。また、「精神疲労と肉体疲労、中枢性疲労と末梢性疲労」などと表現されることもあります。

このような背景から、より分かりやすく説明するために、わたしはこれより、身体的現象を疲労ではなく「能力低下」、そして心理的現象を「疲労感」として表現していきます。

能力低下や疲労感は、日常のストレスが原因です。そして、一定以上のストレスが、疲労感という自覚症状としてSOS信号を出します。さらに、身体・精神に対して一時的な質的・量的な能力低下現象が現れてきます。

前回、「疲労」は「発熱」と「痛み」に並ぶ身体からの三大SOS信号であることを書きました。この3つのSOS信号は、自覚症状です。このうち「発熱」は、体温計の発明によりいち早く自覚症状の可視化に成功しました。これに続いて、他の2つについても現在研究が進められていますがそこには、大きな課題があります。それは、マスキングです。

例えば、「痛み」。子供が転んでひざを擦りむいて泣いているときに母親からの愛情豊かな「痛いの痛いの飛んでいけ」という言葉で泣き止むことはよくあります。世界中にも同様の言葉は存在しています。これは、心理的な影響で本来の痛みをマスクしていると考えられています。また「疲労」においては、やりがいのある仕事や良い結果は、達成感をもたらし、その心理的影響で本来の疲労感をマスキングしてしまうこともよくあることです。このことは、量的・質的な身体・精神的能力の低下があるにもかかわらず、身体の限界まで活動し、時には過労死のような悲劇的なケースに至ることもあります。このマスキングが、定量化や可視化をより複雑に、そして困難にしているのです。

現在、「疲労感」の測定については、日本作業衛生学会が「自覚症しらべ」という調査票。あるいは、日本疲労学会が疲労感VASという検査法などを公開しています。また、理化学研究所から主観を客観的に測定して定量化する方法として主観的気分測定ツール「KOKOROスケール」も近年発表されています。